2025/12/5

答え合わせ1

今回は前回書いたブログ「本能で危険を察知」の[エピソード1]について、答え合わせをしていきます。


私が小学生の頃、夜になって電気が必要になる全ての時間帯や、夜中に目が覚めてトイレに行く時にとっていた行動です。
→私は小学生の頃には予知夢を見ていたりしていた天然の能力者です。
 感覚的に元々鋭かった可能性があります。

出発点となる自分の居る部屋の電気を点け、目的地までの廊下の全ての電気を点け、駆け足で消しながら戻っていました。
→本当の最初は、漠然とした恐怖でした。

家の階段をイメージしてみてください。
下から階段を真っ直ぐに上り、真ん中あたりの突き当たりを左に90度曲がり、すぐに突き当たりで、更に左に90度曲がり、真っ直ぐに少し上がると2階です。
2階から降りる時は、カーブする辺りまで来ると、上から見える下全体が怖く感じ。
1階から上る時は、最初から見えている階段部分全体が怖く感じていました。

初めの頃は、場という広い範囲で漠然とそう感じていたのですが、空間をジーっと観察していたのを覚えています。
階段のカーブ手前と、部屋に入る手前で、空間のそこにある違和感を認識しようと見ていた記憶があります。
まぁ初めは、どんなに見てもわかりませんでした。
ただ、よくわからないものが追いかけて来るようなことはない、ということは理解していたと思います。

それからは数年単位で、認知能力が向上していきました。
最初は漠然とした場に対してでしたが、段々と狭まっていきました。

全体的だと思っていたものが、階段の真ん中辺りであることがわかってきました。
今となってははっきりわかることですが、その辺りだけ何かが違うと言いますか、空気や質感が違うというのがわかるようになってきたのです。

そのうち更に狭まり、段の幅の半分位にまで絞られていきました。
最初は長方形のような、やはり幅のある認知の仕方でした。
そして範囲が狭まったことで、ソレが移動していることがわかってきました。
ソレは階段の真ん中辺りの数段を、前後左右に移動しており、場所が変わっていることがわかるようになりました。

そしてそのうち、ソレは人間であると理解し始めました。
識別能力も上がり、人の形で認識できるようになりました。
その時点ではまだ、人の形であることまでです。

そのうちそれが女性であることがわかるようになり。
それがおばあさんであることがわかるようになり。
そのうち髪を後ろでまとめてすっきりとしたスタイルで白髪、普段着のような軽装の和服であり紺~紫色のものを着ており、背筋を伸ばし、足も揃えて、いつもきれいな姿勢で階段の数段を使用して座っている、というところまでわかるようになりました。


この頃の私は、肉体の器官で霊的なものは何も見聞きした経験はなく、特に家族から何かを聞いていたわけでもありません。
→ここまでの認知や理解にも、五感はほぼ使われていません。
 私が使用するのはほぼ、常に6感以上であり、肉眼を頼りにすることはほぼありません。
 「みる方法」や「使っている部分」が肉眼のみで霊視する方とは少し違います。
 どうやら「第三の目」や「松果体や前頭葉?」を意識する方もいますが、私は元々興味がありません。

私は彼女が居ても、干渉しません。
朝から夜までは階段の半ばで一階の方を向いて座っており、夜中から早朝は突き当たりの壁に背をあずけ、2階の方を向いて座っています。
大体段のどちらかに寄っていてくれるので、空いている半分を通るのですが、時々下の方で段の真ん中に座って真っ直ぐ見ている時もあり、ちょっと驚く時もありました。

これだけ色々わかっても、私は家族に話していませんでしたし、家族からも話題に出ることはありませんでした。
恐らく全員がそれぞれに、自分以外は気づいていないと思っていたか、気のせいだと思っていたか、話す必要がない、話さない方がよいなどと思っていたのかもしれません。

それからどれくらい経ったのかわかりませんが、ある日、肉眼で霊的なものを見れる人が泊まりに来ました。
ですがその時は、お互いそれについて話していません。

霊的な話しは、家族でも知人でも、話題にするのが難かしい場合があり、まして他人に話すことはより困難です。
はっきりと話せる相手がいない場合、ずーっと主観的なものとして終わるか、話せる相手が理解できない場合、それが正確であったのかを確認できないまま人生を終える方もいるでしょう。
実際、経験者でありながら、それを理解しきれないでいる人はいるはずです。
そしてそのような世界を理解し、受け入れられる程には、人の社会は成熟しておらず、学者の出してきたものの中で生きるしかない環境です。

そしてある時、泊まりに来た人に聞いてみました。
「うちにさ、何かいるよね?」と、「いるね。」
「おばあさんいない?」「いるね。」と。
「階段の真ん中辺りにさ・・・」と詳細を語ると「そうだね。」となり、ずっと認知していたものが実際にそれであったことが確認できました。
なぜその人は私に話さなかったのかというと、どうせ話してもわからないだろうからという、経験上の選択です。

それでこの人との関わりの中では様々なことがわかったのですが、この人物が肉眼でみるものと、私が感覚でみるものが大概一致しているということです。
私がこんなのがここにと話す時は、ほぼ確実に居ると言われました。
居ないという時は、その人が疲れて見えない時だと思うと言います。
つまり、今は見えない、わからない、であってそれは居ないとは異なります。
今ここにこういうのがいないか、と詳細を述べる時、大体その人は肉眼でそれが見えていました。
その人はほぼ肉眼頼りのため、目で一生懸命見ようとしますが、私は目を使わないので時空間を越えて色々わかるのです。
肉体の疲れも関係なかったりします。
肉眼で霊的なものが見える人は、目で見ようとする傾向があり、目を閉じるとあまり見えなかったりしますよね。
私が10代の頃から自分について言っているのは「目を開けているとそれなりにわかるけど、時々ばっちり見えることもあるけど、目を閉じると全てがみえるしわかる。」です。
特別視されるような研究で、目を重視していることを疑問に感じていました。
みる能力は大概、開かれている目で表現されていますし、私はそうではないのですが、それが大々的に採用されているということは、そういう人も多くいるということなのでしょう。
因みに、霊的能力においては、想像力は強化する必要はありません。


霊的な探求が進み、現在の私は、この家に訪問する時には、明るい時間であっても、この廊下、特に階段を足早に通ろうとします。
自然に通りますので奇行には見えません。
さて、私の行動の理由は何でしょうか?
→ということで、子供の頃からの私の行動の理由は「そこにお婆さんがいつも座っていたから」でした。

ですが、私の話しはここで終わりではありません。
私は「このお婆さんが何者なのか」まで突き止めた上で、このスルーするという態度をとっています。
長くなりましたので今回はここまで、続きはまた次回。