2025/12/10

答え合わせ2

今回のお話しは以前ご紹介した「本能で危険を察知」の中の、エピソード1の「答え合わせ1」の続きです。
前回は小学生の頃から漠然と認知していたものは、おばあさんであったことがはっきりとした、ところで終わりました。


この認識の助けとなった人に、彼女は誰であるか聞いても、誰であるかはわかりませんでした。
そうすると今度は「一体あれは誰よ?!」となるわけです。

昔風の着物で害の無さそうなおばあさん、ずっと家に居る、見ている、となると祖母や先祖ではないか、となるのはありがちな展開です。
「すごくありそうな話しだけれども、毎回全部がそうじゃないからねっ!」とだけ、まずは書いておきましょう。

私も最初は血縁関係のどこかの繋がりの人かと思いました、とりあえずまずは思っただけです。
小学生の時には両親共の母(私の祖母)は健在でしたので、その代ではないことは明らかでした。
となると私の知らないおばあさん、というのは確定です。

この頃には縁の有無や強さもわかるようになっていましたので、判断自体は簡単でした。
どうやら母の方の人ではない・・・、父の方か・・・・、どうも父の方でもなさそうだな・・・と。
これは家系図などで見るものではなく、霊的な情報で辿っています。

母か父かというと、どうも母では絶対なさそう、は確定。
そしてどうも父の方だが血縁関係ではないんだよなと、でもどうも父の方なんだよなー・・・というところまでで終わりました。

少なくとも私とのご縁や繋がりは全くない、というのは確定。
で、結局「誰よ?!」となり、またこれに関しての謎解きは一旦止まるわけです。


答え合わせは突然にやってきます。
滅多に霊的な話しをしない父が話したエピソードです。

父は人の体をみる仕事でしたが、あるおばあさんが亡くなる少し前に来て、治療中に「ここは極楽だ・・・」と言ったそうです。
その方には、治療中の部屋が極楽浄土に見えていたようです。

!!その人だっ!と気づきました。
なるほど、だから父の方寄りで、血縁無し、あの場所で白装束でもないわけねと。
そしてあの行動に行動範囲、全てが理解できました。


彼女は生前、亡くなる直前に極楽浄土を見た事で、ここにそれがあると思い、死後に来て、居座ってしまった、ということです。

彼女が居る位置は、いつも階段ですが、一番高い段でも患者さんが一階から見ることができる、2階へ続くカーブの手前までです。
つまり生前に彼女が実際に見たことのある部分までしか、彼女は上っては来ません。
それは死後もプライベートな空間までは入って行かないという、彼女のマナーのあらわれなのかもしれません。

仕事がありうる一番早い時間から遅い時間までの時間帯は、段の半分に腰掛け、治療室のある一階の方を見ています。
それは私たちが階段を上り降りする時間帯ですので、よけてくれています。
彼女には私たちが見えており、時間もわかっているということです。
仕事がなく、両親が出掛けている昼間に時々一番下まで来て、段の真ん中に居たりするのです。
普通にぎょっとします、(近っ!)と。
真ん中の時は仕方ありません、そのまま突っ切ります。
そして仕事が終わって夜の時間帯は、カーブ手前に居て、父の居る部屋の方を見ているのです。
下へ降りる時に漠然と感じた恐怖は、上を見上げている彼女の視線だったのかもしれませんね。

ということで、ずっと階段に座っているおばあさんの正体がわかりました。


この霊的な存在の正体を探る試みですが、非常に距離をとって行いました。
お気づきでしょうか、他の2つのエピソードと違い、私はこのおばあさんには話しかけていません。
家に居る幽霊と話す人も居ますが、私は必要な状況になるまではしません。
また霊を自分に入れて直接知ることも可能でしたし、自分が霊に入って知ることも可能でしたし、そこまでしなくともアクセスして情報を得ることも可能でしたが、していません。
私はこれらを行うこと自体はできますが、簡単に言いますと「そこまでしたくない・・・する必要もない」という感じです。


さて、ここからが重要なお話しです。

このおばあさんは「極楽」という言葉を知っており、「極楽」と思えるような映像を、生きている間にみる能力がありました。
つまり宗教的な知識や、死後についての知識、そして父が場に展開できた霊的領域の性質を、理解できる人物であったことがわかります。
知識や知恵があり、霊的能力があった彼女が、死後に極楽浄土を求め、ここにあると確信し、実際に何十年もそこに居続けているのです。
しかし実際は、そこはこの、人の世の、物質世界に極めて近いレベルの場所であって、もちろん極楽ではありません。
彼女が極楽がこの世であり、人の世界と物質世界であると教わってきた結果、それを信じてきた結果であれば、仕方ありません。
それが彼女の願望と真実である、としてもよいでしょう。
私たちとは全く違うものですがね。

つまり生前、知識や能力があるだけでは、こうなる可能性があるということです。
ちょっと詳しくて、霊的なものを認知できる人は沢山います。
本当に沢山いるのですが、それでもこのような状態で、半永久的にこの世界、人に近い所で過ごすことになる人はいる、ということです。
それらが全く無い場合はどうか、というのはまた別のケースです。


次に、そういったことを理解している私が、彼女をスルーしている理由をお話ししましょう。
基本的に、彼女が用があるのは、あの場所と父であって、私ではないからです。
そして私もまた、彼女に用はありません。
お互いに用がなく、特に害もなく居るだけですので、お互い干渉もしません。

また父は、色々わかるようになり過ぎて怖くなり、かなり前には力をブロックしたと話していましたので、今後、彼女をどうにかしてあげることもないでしょう。
恐らく気づいてはいるでしょうが、気にもしていないと思います。
これは父が無責任であるとか、無慈悲であるとか、ではありません。
彼女は勝手にここに極楽があると思い込み、父がそれに通じる人だと思い込み、自分で我が家に入り込んで、勝手に何十年と居座っているだけです。

つまりこれは、知っている知識や能力の強さ、関わっている人物や所属などは関係ないことを伝えています。
父が極楽浄土の性質に繋がっている人であり、その霊的領域を場に展開できたとしても、それを知って、父と繋がり、関わり、死後にそれらを求めたとしても、あくまでそれは父のものであって、彼女が繋がっていた世界は、これまでもこれからも、この一般の人の世である、という現実です。
これは私が以前から話していることですが、個々人のものであって、他者は関係ない、という部分の具体例になります。
極楽を知識で知っていても、映像でみえたとしても、自分自身がその性質でないのであれば行けません。
そもそも極楽という言葉自体が、宗教の言葉ですので人の世のものですからね・・・これもいつも通り、宗教は通過点であって全てではない、という部分です。

これでわかるように、いっくら世界中の知識を集め、最高級の思考を集めたところで、関係ないのですよ。
いくらそれを人々の前に広げ、語り、説明をするものがあってもですね、いくら技術を磨き、例えば自然を力でどうにかできたとしてもですね、関係ないのですよ。
これは10代から言っていますが、私は信者は要らないと言います。
それは信じているだけなら意味がないから、です。
私はそれぞれに必要なことをし、それぞれに成長できる人材を求めているのであって、私を特別視し、全てを理解ではなくただ信じ、自身は未経験者であり続けるような人材ではありません。
同じく干渉、観察、監視、分析、研究、実験、まとめといった、自分以外に何かを求め、ただ知識や技術だけが増えていく人材も、私たちにとっては彼女と同じようなものです。


それでは更に重要なお話しをしましょう。
私は浄霊もできます、徐霊は意味がないためしません。
やろうと思えば、彼女を導き引き上げることは可能です。
ではなぜやらないのか、という部分です。

世の中にはサービス精神で、霊を見つけると成仏させる人も居ますし、そうすることが人のためであり、慈悲深い姿や、手本とするべき姿であるとする人もいれば、霊は全て悪であり、全てを払い、あるいは戦うべきだとする人もいます。
私はそのどれでもありません。

まず第一に、彼女自身が自ら選んでこうしている、ということです。
彼女は極楽浄土というものを信じていたから、極楽という表現をし、この場を信じ、それを望んだのです。
つまりこれは、生きている人々が何かある度に絶叫している「宗教の自由、信仰の自由、人権」というものが優先された結果なのです。
その自由と人権を強く主張し、守ることに必死であり、守るべきだと加勢し、攻撃を受けたと感じると過激に反応するのが人というものです。
それが例えおかしなものであったとしても、本人が熱狂していれば周りは手を出せないはずです。
それが人々が言う自由です。

しかしこの事例でわかるように、彼女が完遂した自由の体現は、結果的に物質世界、人の世の、小さな家の、数段の階段という極めて小さな範囲に、留まり続ける、という結果を生みました。
そこを今でも極楽だと思っているかもしれませんし、父が生きている間は安心していることでしょう。
これは自由とセットにある責任と報いです。
それでも本人は苦もなく、居場所があるため白装束でもなく、極楽という幻想に普段着で心地よく、静かに暮らしています。
疑問も違和感も感じていないですし、後悔もありません。
そのため彼女については、人の苦を取り除くという慈悲は無用です。
そして私が関わる必要もありません。
問題がないからです。

問題は、父が死に、この家が無くなった後からでしょう。
彼女は頼りの人物が不在となり、父は彼女とは一緒にはなりませんし、家が無くなればいつもの極楽階段も無くなるわけです。
その土地に居続けるのか、どこへ行ったらよいかわからずさ迷うのか、少なくともこの世界以外に自力では行けないでしょう。
彼女は半永久的に極楽の幻想に囚われ続けても、誤った結果、さ迷うことになっても、それもまた報いです。


そうなるとわかっていても彼女に救いの手を差し伸べないのか、と思うでしょうか。
私は私の個人的な願望では動きません。
救いたい、助けたい、どうにかしてあげたい、これらは願望です。
私の感情に関わらず、必要があれば要請があります。
必要な力が用意されるか、与えられ、方法や手順、目的も自然にわかります。
今回のケースに対しては何の用意も動きも、かける言葉もありませんでした。
対象になっていないのです。
これは人情とか、人の慈悲とか、道徳や倫理といったそういった次元の話しではなく、簡単に言うと、救う必要はない、そこにそうしていればよい、という評価です。


霊を見たら対処が基本という教えもあるかもしれません。
霊は全て悪霊であるという場合など、あるかもしれません。
恐らくそのような態度のものは、あまりみえない人や、周囲に強い力がある人がいない人からのものである可能性があります。
すごく見る力の強い人は、生身の人間と幽霊の区別がつきません。
私もバッチリみえた時は、生身の人間と変わらないくらいでしたが、例えば横断歩道で渡ってくる人の中に混じっていても、区別できなくてよけたり、当たったりするような日常があったりするようです。
そして生きている人間よりも既に死んだ人間の方が圧倒的に多いから、霊なんてそこら中にいる、と話す人もいました。
そのため人によっては道端で見つけた霊に話しかけて成仏させる人もいますが、すごくみえている人からすると、いちいち構っていられない、という状況です。
そして私は個人的に、要請がなければノータッチですし、対象の自由を尊重し、本当に高いレベルで働いている法のようなものが基準になっており、テリトリーをおかさず、わざわざ敵視も敵対もせず、干渉しない、というわけで、何でもかんでもという態度ではないのですよ。
何でもかんでも干渉したり向かっていく?実験研究対象にしたり?などは、霊的な領域でもろくな関係性を築けず、ノーサンキューで門前払いされるか、質の悪いものにしか関われないと思います。
生きている間に生身の人間同士であれ、他との関わり方を学ぶのも重要ですよ。


さて、これがエピソード1の答え合わせです。
全貌を完全に理解できた方はいましたか?


彼女の本当の報いと学びは、父と家を失った後から始まるのです。
自由と責任はセットです。

あなたの手元にある「自由」というものは、あなたを自由にしてくれそうですか?
それとも永久の幻想に導いてくれそうですか?


これは宗教に限りません。
あらゆる知識や思い込みの数だけ、可能性があるのです。
そう、これも人が大好きな「未来の可能性」「人間の可能性」「人の創造による世界」というやつです。


それではエピソード1を終わります。